咖啡场景
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投稿者
小坂章子
since
2015-11-25
  • 珈琲がそこにあるだけで、
  • いつもの日常が豊かにふくらみ始めていく。
  • そんな珈琲まわりの徒然話を日本よりお届けします。
  • 短編小説「純喫茶とらや」

     「明日で、ついに閉店かあ。」
     早苗ちゃんは、ダンガリーの前掛けで手を拭きながら呟いた。門司港で半世紀、いや正確には62年。今は亡き創業者の祖父、太郎さんが始めた喫茶店は、2代目の両親を経て、早苗ちゃんで3代目を迎える老舗である。
     太郎さんが元気だった頃の記憶はほとんどないけれど、靖子ばあちゃん情報によると、「この辺じゃあ、いちばんのモダンボウイで女にもモテたのよ。しかもアイデアマンで新しもの好きだったから、町では一目置かれていた」らしい。
     (ふうん、だからあんな手拭いも作れたんだ。)
     ソファ席に架かった額縁入りの手拭は、母の靖子さんが押し入れから引っ張り出してきた開店記念品である。今は店に立つのをやめた靖子ばあちゃんは「そんな昔のを」と顔をしかめたけれど、「法被の形に折ったのも、じいちゃんだったんでしょ。センスいいよね。」と早苗ちゃんが店に飾ったところ、客の評判は上々、譲ってほしいという声も相次いだ。
     戦前の門司港は、大連や天津航路が開けた華やかな国際港だった。戦争時代は焼け野原と化したが、町の人々のファイトによって瞬く間に復興を遂げ、しばらく途絶えていた「門司みなと祭り」も再開された。すっかり活気を取り戻した町の港そばの踏み切り脇に建つ旅館「群芳閣」の隣に「純喫茶とらや」ができたのは、1950年のことである。
     旅館の息子でもあった太郎さんにとって、バナナを揚げて砂糖とからめたバナナのフリッターは、幼少期のおやつだった。時にこの一画は、露天商が声高らかな口上でもってバナナを売る「バナナの叩き売り発祥の地」としても知られていて、モノや人が盛大に行き交う場所でもあった。「店も夜中まで大賑わいでね。月末になると、常連のお客様の会社を廻って集金したものよ」と、靖子ばあちゃんがにやりとするくらいだから、今とは桁違いに繁盛していたのだろう。
     けれど1987年に国鉄が民営化され、本社が門司港から福岡市内に移った頃から、この界隈から企業が消え、人が消えた。旅館も閉じた。かろうじて「純喫茶とらや」だけは生き延びてきたものの、その命も明日までである。
     (はあ、自分が決めたこととはいえ、これで良かったのかなあ。)
     カウンターに腰かけた早苗ちゃんが深いため息をつく。3代目の責任はじゅうじゅう感じていたし、我が使命と重く受けとめてもいた。けれど、どう楽観的に考えようにも、一人で店に立つ姿が想像できなかった。厨房は両親に任せっきりだし、珈琲だけなら何とかなるにせよ、来る日も来る日もここでいつ来るともしれない客を待ち、店を開け続ける老後を想像するだけで気が遠くなった。「早苗ちゃんしかいないんだから」とご近所さんに叱咤激励されるたび、前向きな返事ができない自分が情けなくもあった。
     そんな悶々とした日々がしばらく続いたある日。家主である親戚から、老朽化がひどい「とらや」の建物を取り壊すことにしたという連絡が入った。事後報告ではどうしようもない。移転して店を続けるか、それともここで辞めるか。家族会議の場で早苗ちゃんが正直な気持ちを口にすると、靖子ばあちゃんも両親も拍子抜けするほどあっさり頷いてくれた。
     (だけど、本当に終わっちゃうのかあ。実感わかないなあ。)
     外にある四角い看板を店に入れながら、早苗ちゃんは白い息を吐き、暗くなった空を見上げた。星はひとつも見えない。明日は冷えるだろうな。
     その夜の風呂上がり、いつもより念入りにクリームをつけた。明日で終わり、明日で終わり、明日でぜーんぶおしまい。言い聞かせながら、クルクルクルクル。ひんやりとしたクリームが風呂上がりの肌に吸い込まれていく。鼻のてっぺんのカサカサ部分は、特に念入りに。水仕事で荒れた指先にもたっぷりと。
     襖の向こうから「早苗ちゃん、明日で最後ね。おやすみ」と加代さんの声がした。
    「うん、そうやね。ありがと、おやすみなさい。」
     そう呟いたら、心が決まった。そうだ、明日も今までと同じ。特別じゃない、いつも通りの一日にしよう。


     最終日。近所の人が触れまわったからか、店は終日ごったがえした。オムそば、バナナフリッター、鉄板スパなどの注文が次々と小さな厨房に運ばれては、ジャーッという景気のいい音がして、熱々の皿がテーブルへと運ばれていく。
     週刊誌片手に黙々と口を動かす一人ひとりが食べ終わる頃を見計らって、早苗ちゃんは珈琲の準備をする。ミルがぐいーんと鳴って辺りにアロマが香る。白い琺瑯ポットから静々と湯をおとす。この時間がけっこう好きだったことに今さらながら気づくのだった。食べ終えたひと息ついたところに、いれたての珈琲をスッと置く。ちらりと雑誌から目をあげた客の表情がゆるむ。こういう瞬間も好き、と早苗ちゃんは丸いお盆を抱え、再確認する。
     食後の珈琲を飲み終わるやサッと席を立ち、閉店の張り紙に目をやるも大袈裟に反応することなく、代金をきっちり払って、明日も来るような顔をして扉の向こうへ消えていく。いつもは素っ気ないとすら思えるサラリーマンの姿に、今日は救われる思いがするのも不思議だった。もちろん時折、感極まった顔つきで早苗ちゃんや加代さんを見つめたり、握手を申し出たりする客もいたけれど、9割がた普段どおりに時はながれた。
     閉店まで残り1時間。本日3回目登場のご近所さんがいつもの席に腰を下ろし、ブレンドねと目で合図する。
     小豆色のミルに豆をスプーン3杯分いれて、スイッチをパチンと押す。いつにもまして力強くて頼もしい働きをする相棒を早苗ちゃんはまじまじと見つめた。
     (じいちゃんの代から、ずっとこれを使っているわけだからすごいなあ。今まで全然意識してなかったけど、“フジローヤル”って名前なんだ。)
     と、ミルの横に立っていた客が、「懐かしいわねえ、このシール。さすがはバナナの叩き売り発祥の地に建つ喫茶店だわ」と声を弾ませる。
     「え、何々、どうしたと」とつられてミルをのぞき込む客に、「店で使うバナナに貼ってあった歴代のシール。色んな絵があって可愛いから、ミルの脇にペタペタ貼っていくのが癖になったんですよ。」と加代さんが解説している。
     「このシールのさ、一枚一枚に、『とらや』の一日一日がつまっとるんやろうね。」
     ご近所さんがシワだらけの手をミルにのせて、ニカッと笑った。
     「そうねえ、新しもの好きの太郎じいちゃんだもの。このミルだって、発売と同時にいちはやく手に入れたそうですよ。それから半世紀、ここが定位置。」
     「はあー、よう見たら、古株らしい貫禄がある。」
     「あんたと同じ! 年くって傷も多いけど味があるたいね。」
     いつのまにか、客がミルを中央に据えたカウンターを囲み、それぞれの思い出を喋りはじめた。常連もいれば、初めての顔も。皆一緒に、すっきりとしたいい顔で笑いあっている。
    「さ、お湯がわいた。美味しいの、いれますね。」
     右手になじんだポットをもつ早苗ちゃんを白い湯気が包み込むと、いつもの香りに誘われて視界がぼんやりにじんでいった。


    ※この短編は、2015年12月15日で閉店した「純喫茶とらや」を取材し、創作したものです。

    短編小説「純喫茶とらや」

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